帰ってきた飛行士
-後編- 2006年7月24日(月) ![]() ![]() ![]() |
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その寄付金を元に彼は学校建設に乗り出した。4つの教室からなるその学校には、40人の生徒が集まり、1964年に "Airmen's Memorial School" としてスタートした。 1969年には彼は妻ドロシーと共にやってきた。5年間西ニューブリテン州に腰をすえることを決めたのだった。その理由のひとつは、新たな大きなプロジェクト、図書館設立を実現させるため。そしてもうひとつは、この学校の運営を完全にパプアニューギニア人に託すために、技術移転や指導や管理方法などを伝えるためだった。 現在この団体のトップであるガルア・ペニさん。彼女はAirmen's Memorial Schoolの最初の卒業生である(前編の写真左の女性)。彼の想いは確かに引き継がれた。 「昔の仲間達がこうしてまた戻ってきてくれた。」ガルアさんに団体の全てを託した時のコメントだ。 「人生で最高の時はここで始まったんだ。この島で昔私の身に起こったことは素晴らしい出来事の始まりだったんだ。」 「60年も前、私はここでいろいろなことを知った。たわいもない食べ物が素晴らしいごちそうになることを知ったし、その辺に生えている草が家になることも知った。そして何より私と村人のようにまったく異なる言語、文化の人間同士でも一生の友達になれることがわかった。」 人間というのは磁石のようだ。フレッドさんは村人にひきつけられて何度も戻ってきた。ガルアさんも彼にひきつけられて戻ってきた。 フレッドさんは村人達に命を助けられた恩に報いるために何度も何度もこの地に戻り、学校や図書館を設立し、村人のために活動を続けてきた。もう、その恩には充分報いたはずだ。しかし彼は遠くを見つめ、こう言うだろう。「一生この先ずっと、報いることができるとは思わないよ。」 磁石にひきつけられて、彼はまた何度でも何度でもこの地に戻ってくるだろう。 (了) |
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