帰ってきた飛行士 -中編-    2006年7月24日(月)     記事一覧へ    前の記事へ    次の記事へ
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ャングルの中で発見された時の彼は瀕死の状態だったが、ナンタブ村での5ヶ月間で彼は完全に回復した。村人たちが彼を必死に看護し、食べ物を与えたからだ。しかし、常に充分な食べ物が手に入るとは限らない。子供を産んだばかりの女性の母乳を与えられたこともあったという。


の5ヶ月の後、彼は日本兵に見つからないように安全に移動され、オーストラリアの沿岸警備兵に引き渡された。そしてさらに3ヶ月間が過ぎた後、1944年2月モロベ州のフィンシャーフェンから、アメリカ軍の潜水艦に乗り込みアメリカへ帰還したのだった。


「アメリカに戻り、とても安全で快適な暮らしをしていましたが、いつも頭の中はナンタブ村の人たちのことで一杯でした。あの戦争から生き延びられただろうか、敵に見つかり拷問を受け殺されたりはしていないだろうか。私は彼らのことを思うといてもたってもいられなくなり、ナンタブ村へ戻ることを決めたのです。」


して16年後の1960年、遂に彼は戻ってきた。命の恩人達に再会するために。そしてその恩に報いるために。


争が終わって初めてのナンタブ村への訪問であったが、今まで彼の頭の中にあったアイデアがはっきりとしたイメージで浮かび上がってきた。西ニューブリテン州の人々の教育や健康、幸せに貢献するため、Airmen's Memorial Foundation(飛行士の記念財団)のたちあげを思いついたのである。


して、その後彼はパプアニューギニアに15回も足を運ぶことになるのだった。

後編へ続く>>
StreetBeat
1960年にナンタブ村へ戻った時の写真。真ん中は当時フレッドさんに母乳を与えていたお母さん。


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