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兵士達の足跡。 2006年1月20日(金) その弐

 第二次世界大戦。圧倒的な軍事力を誇る米太平洋艦隊と戦わざるを得なくなった日本にとって、太平洋の制海権を握ることは残された最後の望みでした。そのため、太平洋では多くの激戦地が存在し、人知れず多くの日本兵が戦死していきました。日本の年配の人に「パプアニューギニア」と伝えると、ほとんどの人が戦争のことを思い出すと言います。当時、パプアニューギニアは激戦地だったのです。
 ソゲリは、日本軍が連合国軍の拠点ポートモレスビーを攻略するためにたどったルート「ココダ・トレイル」の入り口です。

ココダ・トレイルの入り口。モニュメント。


オーストラリアが建てたものです。

 オーストラリア軍によって占拠されていたポートモレスビーを攻略することが当時の日本軍にとっては非常に重要でした。その実現のため日本軍は海軍による攻略を計画。しかし、1942年5月、史上初の空母機動隊同士の戦いとなった珊瑚海海戦でアメリカと激突した日本軍は、空母に打撃を受けてしまい海軍によるポートモレスビー攻略を断念せざるを得なくなりました。そして、日本陸軍南海支隊へ北方から陸路によるポートモレスビー攻略の命令が下されたのが悲劇の始まりでした。
 ポートモレスビーまでの陸路は、非常に険しいオーウェン・スタンリー山脈を越えねばならず、行路は狭くぬかんるんでおり、密林に囲まれほとんどの道が急勾配であり、川の中を苦労して進まねばならない場所がいくつもあり、ただただ苦しい道のりでした。その険しさのため陸路でポートモレスビーに侵攻することは"不可能"とさえ言われていました。
 しかし南海支隊の兵士たちにとって命令は絶対であり、あまりにも険しい道のりを国の勝利だけを信じて進みました。そして、オーストラリア軍との衝突、さらには食料もそこをつき、餓えとマラリアの発症によりその多くが死んでいきました。
 しかし、よく訓練された日本兵は経験の浅いオーストラリアの守備隊をじりじりと後退させ、遂に中継地点のココダを攻略。ポートモレスビーの街の灯と海が見えたときには天にも昇る喜びだったようです。
 飢えとマラリア、過酷な山越えのための想像を絶する疲労の中、ポートモレスビーの海を見ることだけが兵士たちの気力を支えていたようです。
 そんな時ガダルカナル島の戦況の悪化のためにニューギニアへの戦力がそちらに充てられることとなり、南海支隊に撤退命令が下されました。ポートモレスビーまであと一歩という所で引き返さざるを得なくなった兵士たち。背後からオーストラリア軍の追撃を受け、何よりも餓えとマラリアにより、遂には全滅するに至りました。ある兵士の日記がこの激戦地の残酷さを生々しくうつし出しています。
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10月17日 ついに食料は完全になくなった。木の根を食い、草を食う。
10月19日 他の中隊ではとうとうオーストラリア兵の死体の肉を食うものが出た。何も食うものがない。
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道のりが刻まれています。


ココダ・トレイルを歩く日本兵。63年前の写真です。


蓑を着て身を潜める日本兵


野に晒された日本兵の死体

※ココダ・トレイルの歴史については名古屋学院様のHPを参考にさせていただきました。
 http://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/25.html
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